2006年1月26日 (木)

デジカメの台頭と銀塩写真の衰退

今となっては20年も前の話だが、私がまだ高校生の頃、将来家をたてたら欲しいと思っていた部屋が2つある。
一つはオーディオルーム。もう一つは暗室である。

私は当時部屋に暗幕を張って白黒写真を引き伸ばしていた。赤い光の中、印画紙に次第に浮かび上がってくる黒い陰をわくわくして見つめたものだった。そして「暗室があればいちいち暗幕を引いたり、風呂で印画紙を洗ったりする必要ないのになあ」と思っていたのだ。

今でも余裕があればリビングをホームシアター兼用にしたいとは思う。しかし、暗室はどうか。撮影する写真の多くはデジカメで済ませ、銀塩写真をほとんど撮らなくなってしまった。

なによりもすぐに見ることができるし、写真をトリミングしたり、補正して焼き付けたい場合でも、暗室の中で覆い焼きしたりする必要はなく、そこそこの性能のパソコンが1台あればよい。さらに膨大なネガやポジを保管しなくても、これまたパソコン一台あればことは済んでしまう。これらの利便性から、デジカメの台頭と銀塩写真の衰退は、逆流することのない世の中の流れとなっている。

最近になって相次いで衝撃的なニュースが報道された。ニコンがフィルムカメラから、コニカミノルタがカメラ事業から撤退するというのだ。これらの会社はこれまで様々な名機やフィルムを生み出し、写真愛好家にとっては愛着がある会社ばかりである。デジカメが復旧しはじめた頃、写真雑誌等に、「デジカメは画質がまだまだである。フィルムカメラはプロやマニアに愛されるため、無くなることはないであろう」という記事が載っていたことを思い出すが、デジカメやプリンタのこれほど早い進化を誰が予想したろう。おかげでデジカメは、ものすごい速度で陳腐化しており、数年前のデジカメにはほとんど価値がない。

今後さらに進化した様々なデジカメが生まれることは楽しみではあるが、フィルムカメラが消え去っていくことは、かつてカメラの露出が自動となり、モータードライブが当たり前になり、オートフォーカスが当たり前になった時々に感じた以上の寂しさがある。

それは、写真の媒体が「フィルム」という目に見える確実なものから、目に見えない不確かな「データ」に置き換わり、何枚撮っても金がかからず、いらないコマは、一瞬にして消し去ってしまうことが出来るというその簡単便利な特性が、写真そのものの価値までもを何かしら軽いものに下げてしまったような気がしてならないからである。

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